うなぎのねどこ

かきこみぐちぐち

運命を信じるか?

東浩紀の一般意志2.0を読んでいる。気の抜けたライトのベルよりも、こういった本の方が読みやすいような気がしてしまっているのが難だけど、前半の概念的な部分はいたって面白い。後半の現実に当てはめる部分はちょいと退屈。でもまだ最後まで読んでないのだけど…

さて、この本の後半。一般意思2.0=無意識=googleが政治をすることは良くないこととされている。いやすごいまとめ方をしてしまっているけど、そこはぶんしょうひょうげんりょくがないので仕方ない。
前半で一般意思をもてはやしていたのに、後半になって現実的になると一般意思のみに沿うべきでないと来るのは、なんか肩透かしのような気がするのだけれども、まぁそれは脇においておいて……

一般意思とは人の思いのベクトルの差分の総体と定義されて、それは現在の情報化社会では、SNSやブログ等Webの世界で記録されたデータベースの中に存在するものと同等とみなしても良くて、一般意思2.0としてそれを有効に利用すべき。とあって、お題目としては正しいと思うけど、そもそも発信の閾値が格段に下がったとは言っても、発信動作自体が結構特別な作業であって、ましてや情報機器に入力すること自体がさらに発信動作の敷居を上げている現状の発信を元に、一般意思2.0といってしまって良いのか気にならなくも無いが、それも今回言いたいことではなくて………

googleはありがたく利用するが、googleのような機械的アルゴリズムに政治を任せるのを嫌がる感情は何かな? と疑問に思ったのだ。

そこに人の思いのベクトルが存在していて、その差分を完全に正確に抽出できるロジックが存在した場合、そのロジックが抽出した結果は、ベクトル構成する全ての人の最小不幸なベクトルであるわけで、それはいわゆる最善の政策だと思うのだ。
ある特定の人の不幸が構成する全ての人の最小不幸となる場合、その人の不幸を見過ごして良いのか? といった疑問が涌くかもしれないけど、その人の不幸が見過ごせない不幸であるなら、それは差分を抽出するロジックが不完全であるだけなのではないだろうか?

まぁその全ての人の最小不幸といった事柄自体が常に変動するものであるからにして、完全な抽出ロジック自体が夢に書いた餅なのかもしれないけど、そんなこといっていても始まらないので、そういった最小不幸となる差分を完全抽出できるロジックが存在するとする。とりあえず今は。

その前提において、完全ロジックが抽出した差分の結果は、自分自身にとって最良のもののはずである。だけど現状そのようなものが存在したら、そのものに対して嫌悪感が涌くに違いない。「私の人生を勝手に決めるな!」ってな感じで。

さてgoogleで森羅万象をググるのは日常的なことであって、家の共用PCのFirefoxのホームページがYahooになっていて、いつもググる際に不便に思っているのはどうでも良いことで、googleでありとあらゆることを検索して、その結果をもって行動することは良くありすぎることで、ならそれは勝手に決められた人生となにが異なるのか? という疑問が涌いてきたわけだ。
googleのロジックによって行動させられているわけだ。

前段の完全抽出ロジックだって、その結果は人に無理な行動をさせるロジックであるはずが無いわけで、ロジックに従うことを快いと思わせるロジックなハズで、昔の映画にあったように人間×コンピューターといったような対立を作り出すものではないはずだ。

いや、この話になにかオチがあるわけでは無いのだよ… ただ同列で考えられないことが不思議だなぁと思っただけで……